偶発的消費が今後の「体験経済」の中心になる理由とは

〜偶発的消費経済とは何か〜

経験値は感性を奪う

人は大人になるにつれて、感性が次第に衰えていきます。子供の頃はあんなにたくさんの出来事にときめいていたのに、どうして年を重ねるにつれて、そのワクワク感が失われていくのでしょうか。その理由のひとつに挙げられるのが、経験値です。

人は経験を重ねると、その出来事に対しての耐性が付きます。それは、良い意味では鍛錬という言葉に示されるように、心身を強く鍛えることに繋がります。一方で、その経験のうち最も脳が活性化するアハ体験は一番最初の体験であり、経験を重ねるうちに、その原体験のワクワクさは失われていきます。

この話を踏まえた上で、具体的な話をします。

あらゆる線と線が瞬時に繋がるこのデジタル社会において、人はどんな情報にもいつでもどこでもアクセスすることができるようになりました。圧倒的な情報量、超高速のアクセス環境。このなかで、人はあらゆるコンテンツを日々、大量にインプットしています。

さて、先ほどの例に置き換えてみてください。人はあらゆる情報に接することで、情報リテラシーをつけるようになりました。まさに、情報における経験値が大幅に増えたことになります。すなはち、消費者がメディアを超えた瞬間です。もう、消費者はメディアに踊らされることはありません。自分の意思で、自分の価値観で、どんな情報を享受するか、選択する権利を持つようになりました。

一方、もうどんな情報が入ってこようとも、大抵のことでは驚きません。瞬時にその情報の背景を知ることができ、SNSを使ってみんなで推察することができるのです。しかしそれは、自ら想像するという体験を放棄することになります。そして、他人の意見を集約して自分の考えを整理するという思考へと変わっていきます。

こうして経験値は、人を鍛錬し、強くしつつも、ひらめきの感性を奪っていくのです。

高度経済成長を支えた自律的消費

こうしたことは、情報・コンテンツだけにとどまりません。それは、消費行動においても同様のことが言えます。結論からいうと、現代において物が溢れかえったことで、人々は消費することそのものにアハ体験を見出すことができず、消費の価値を見出しづらくなっているのです。

どういうことか、時系列で説明していきます。

まず、消費者の行動スタイルには、3つの行動タイプが存在します。それは、自律的消費・他律的消費・偶発的消費の3種類です(参考:COLUMN10 今後、現れると想定される3つの消費行動タイプ実際には1人の人に全てのタイプが共存しており、場面や環境によってグラデーションのように混ざり合いながら複雑な消費マインドを形成しています。しかし、社会全体を包含してみると、時代によって消費スタイルに特徴があることがわかります。

戦後の高度経済成長期、消費の主なスタイルは「自律的消費」でした。自律的消費とは、自分のこだわりを持って購入したい、どうしてもこれが欲しい!という欲求です。当時の日本は、物が現代のように溢れかえっていたわけではありません。

その代わり、時代を熱狂させた数多くの商品が登場します。例えば白物家電とよく言われるような冷蔵庫、洗濯機、炊飯器などの家電用品から、テレビ、車など、新しいプロダクトが人々を魅了しました。この頃の消費者心理は、「物を買うことこそが心の充足」だったのです。つまり、消費そのものが、自分という存在を示す象徴であり、こだわりそのものでした。ある意味で消費に人が支配されている図式ではありますが、それでも、消費をすることが、戦争の敗北から脱却して成長・発展を遂げるための唯一の手段であり、自律的消費こそが心の拠り所だったのです。

受け身の消費によって感性は置き去りにされる

それから時代が移り変わり、現代の大量消費社会を迎えます。物が溢れかえったこの世の中では、なかなか多くの人々を魅了するプロダクトは生まれにくくなります。なぜなら、商品のニーズが多様化したことで、プロダクトの設計も細分化されていくためです。消費者の欲求が多様性の様相を示し、商品もそのニーズに沿って複雑化してくると、消費行動は他律的消費のスタイルを色濃くしていきます。これが現代の消費スタイルです。

他律的消費とは、より効率的に商品を探したいという消費欲求のことです。物がたくさんあると、自分ではどれを選べばよいのか分からなくなります。そこで、商品をあえて比較して「選択」したり、店員に勧められたり、口コミで良いと評判のものを購入するという「受け身の消費」が生まれます。

この消費スタイルばかりをしていては、情報に対する感度が失われていくのではないか、という危惧をもっています。物を買う時、比較したり口コミをみたり、色々なネットの情報をみて情報収集した上で購入するというのが現代のネット社会の購買スタイルです。

しかしそこには、「主体性」がありません。それは購入する行為を正当化するための、単なる「情報の集約」です。そこに、心の充足はあるのでしょうか。人はいったい、何のために消費をするのでしょうか。そこをもう一度深く考えていく必要があると思っています。そうでないと、徐々に知性や感性といった感覚が失われ、ロボット化した社会になってしまうのではないでしょうか。

「偶発的消費」の経済へ

心の豊かさ、感性を取り戻す。これは消費に限らず、情報や物が溢れかえったこの現代社会において、最も重要なテーマだと感じています。

実際、コト消費・トキ消費といった言葉も現れ始めました。これは、「体験そのもの」に心の充足を求めるようになってきたということです。オンラインサロンの流行などはまさにそれに当てはまるでしょう。「情報」の代わりに「体感」を求めるようになり、「物」ではなく「つながり」を求めるようになる。こうして、一人一人が自分の感性を磨き上げる場を作り始めるようになります。

そうなると、物はどのような存在になっていくのか。そこに、消費経済の次のテーマが浮かび上がってきます。

もはや、消費そのものは「体験」の2の次として捉えられています。「体験」が価値の中心として君臨し、「消費」はその周りを囲む付加価値として見出されるようになります。つまり、消費から体験を生む経済から、体験が消費を生む構図へと変わったのです。まずここを認識する必要があります。

しかし、消費の価値自体が変わったにも関わらず、いまだに消費自体のアップデートがされていないと感じます。それはいまだに多くの人々が他律的消費を引きずっているためでもあります。そこで、消費をどう変えていく必要があるのか。浮かび上がるキーワードが「偶発的消費」です。

偶発的消費とは、思わぬ商品との出会い、素敵な偶然によってついつい買ってしまうというヒラメキに似た体験です。セレンディピティとも言われます。この偶発的消費は、他律的消費と違って、非意図的な消費行動です。みなさんもショッピングモールなどで買い物していると、ついつい衝動買いをしてしまった経験があると思います。この経験は、物を比較して買うよりも、情報収集して買うよりも、どんな他律的消費の行動よりも自分の感性が重視されます。このとき、とても幸せな気分を感じませんか?「消費」という行動がまさに、心を充足させるための「体験」へと変わるのです

これだけ物がありふれているならば、偶然の出会いの確率も昔に比べてはるかに高くなるはずです。比較検討して、情報を集めて買う消費よりも、たまたま出会った素敵な偶然によって得られる消費体験のほうが、心が満たされるはずです。

こうした偶発的消費体験をもっと消費者に提供できることができれば、この情報と物が溢れかえった社会を、心の充足の源に変えることができるのではないかと考えています。

より詳しい偶発的消費の可能性については、脳科学者・茂木健一郎氏と対談下ホワイトペーパー があるので、そちらもぜひ参考にしてみてください(こちらからダウンロード

消費をアップデートし、次の世の中を作っていけるよう、さらにこの偶発的消費に対する知識を深め、またアップデートしたいと思います。